古代に高取町の西南を通る紀路沿いにある天皇陵などが万葉集に詠われる
                                紀路とは、飛鳥から西南方面へのび、遥か紀ノ川河口に達する古道をいいます。古代には、紀伊国に至る道ということで、紀路と称され「万葉集」に詠われています。中世以降は、高野山へ続く道ということで「高野街道」と称されるようになりました。現在も高野街道の呼称が残り、また生活道路として機能し続けています。
  実際歩いて見ますと、所々に古代や中世の景観が残っており、歴史を追体験することができ、まことに貴重な歴史遺産です。近鉄
飛鳥駅の近くから高取町大字森に至る間は、古代の紀路の景観を、今もよくとどめています。
                               
  その途中、すぐ左手(南東)に明日香村大字桧前(ひのくま)の集落が見え、また少し先で右手(西)に高取町大字佐田にある束明神古墳を遠望できます。被葬者は天武天皇の嫡子草壁皇子(没後に追尊され岡宮天皇と称されます)で、若くして亡くなった皇子を悼んで柿本人麻呂や舎人達が万葉集に詠んでいます。
 


                               
  そのあと大字森から大字薩摩を経て大字市尾に至りますが、薩摩から右手(北西)に進んで大字兵庫を経て大字車木の右手(西)に斎明天皇越智岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ)が遠望できます。斎明天皇(皇極天皇と同一人物で重祚している)は、飛鳥時代の立役者である天智天皇・天武天皇の母親であり、自身も二度天皇となって律令国家建設の礎となりました。万葉集には、初期万葉歌人額田王(ぬかたのおおきみ)が斎明天皇
の命により代作した歌があり、また日本書紀にも斎明天皇がこの丘陵を詠んだ歌があります。
                               
 さらに進むと大字越智に至ります。万葉歌人柿本人麻呂が越智を詠んだ歌があります。
  

  薩摩をを経て大字市尾に至ります。紀路に沿って市尾墓山古墳と市尾宮塚古墳がごく近接して所在します。大字谷田、大字丹生谷を経て、御所市古瀬、五条市域を経、真土山(まつちやま)を越えて紀伊国に入り、紀ノ川の右岸沿いを走って河口に達します。
【万葉集について】
  万葉集とは、現存する最古の歌集で、仁徳天皇時代から淳仁天皇時代(766年)の歌まで約400年間の短歌・長歌など合わせて約4500首を20巻に収録しています。
  編集は770年頃大伴家持(おおとものやかもち)の手を経たものと考えられています。作者は天皇・皇族や藤原・大伴などの貴族をはじめ上級・下級の官人、僧侶、農民や農民出身の防人、それらの妻など当時の社会の階級の大部分に及んでいます。
  有名な万葉歌人には、初期万葉歌人である額田王、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、柿本人麻呂などがまた、天平万葉歌人である山上憶良(やまのうえのおくら)、山部赤人(やまべのあかひと)、大伴旅人、大伴家持などがいます。